雑記

趣味の文学

福間創さんとキノコのレポート

 昨年、筆者は大学の通年科目で「自然地理学」を受講していた。この講義では、講義内容を活かしたレポート作成によって、評価が下される。題材は地理学のなかでも自然現象を扱ったものであれば可、という自由度の高い設定で、先生曰く「独創性に富んだものなら尚良し」とのことだった。

 4月後半の講義後、筆者は先生に以下の質問をした。

「キノコが生態系で果たす役割は大きい、とよく耳にするが、スーパーに陳列されているキノコの姿からは想像できない。そこで、自生するキノコを観察してそれをレポートにしたい。」

すると、「題材はそれで構わない。あとは半年以上継続してキノコを観察できる場が、うまく見つけられるといいね」との返答があった。他にも、キノコがよく生えている条件云々もご教授いただいたが、ここでは割愛する。

 京都市内でキノコが観察できる場所。先生と別れた後、大学近くの公園や鴨川沿い、寺社仏閣の薄暗い場所にキノコが生えていないか、音楽を聴きながら散歩がてら探した。探索を始めて2時間ほど経ち、そう簡単には上手くいかないかあ、と落胆していたところで、P-MODEL「COLORS」が音楽プレーヤーから流れてきた。「ASHURA CLOCKも好きだけど、COLORSの爽快感もたまらない。福間創さんの曲好きだなあ、何度聞いても飽きないなあ」とうっとりすると同時に、ふと福間さんのTwitterを思い出した。彼はよく京都御苑を散歩しており、御苑内の写真も度々掲載されていた。

「そうだ、京都御苑ならキノコも生えているだろうし、勝手に採集するのも禁じられているはず。ありがとう、福間さん!これで研究ができる、レポートが書ける!」

嬉々として京都御苑に向かい、以降月に1度足を運んでは、キノコを探す日々を送ることとなった。

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京都御苑のヒトヨタケ(撮影:筆者)

 上掲のヒトヨタケは、京都御苑で見つけたキノコのなかのひとつだ。ヒトヨタケは、カサとヒダの部分が一夜で溶けてしまうことから、そう名づけられた。恥ずかしながら、溶けて胞子を飛ばすキノコのあることを、筆者はこのレポート作成を通じて初めて知った。そして「生態系のなかでキノコの果たす役割(副題省略)」と題してまとめたレポートは、今年の1月10日に提出できた。年末年始はP-MODEL「電子悲劇/~ENOLA」を繰り返し聞きながら、レポートの執筆を行なっていた。

 福間さんの訃報を知ったのは、レポート提出後のことだった。この1年間、御苑内でめぼしいキノコが見つからずに焦ったり、これで本当に研究になるのかと不安になったりしたとき、筆者の唯一の励みとなったのが福間さんだった。音楽を聴くのは勿論のこと、「今こうして私が京都御苑内で頭を抱えている一方で、福間さんはのほほんと散歩しているかもしれない。あるいは、とようけ屋の豆腐片手に鼻歌を歌っているかもしれない」と勝手な妄想を膨らませると、肩の力が抜けた。とある日のTwitterでつぶやいていた「発酵一宇の精神」(初めて目にしたときは腹を抱えて笑った)で私も頑張ろう、と元気をもらえた。そう、福間さんのギャグセンスはいい意味でしょうもなくて、そんな彼のつぶやきに日頃癒やされていた。

 福間さんの最後のツイートを見たときは、「なんやねん」とツッコミを入れながらも自ずと涙が流れていた。福間さんにとって筆者は他人に過ぎない。けれども、筆者が福間さんのことを知らなかったら、キノコのレポートは形にならなかったかもしれない。福間さんの作品だけでなく、この一連のできごとも筆者は一生忘れない。心のなかでずっと、音楽とともに生き続けていくだろう。

 

クスッと笑える詩や俳句

 つい先日、岩波文庫から出ている『文選(1)』を購入した。というのも、出だしで紹介されている詩が心にグッときたからだ。

  獺有り獺有り

  河の涘に在り

この箇所は「カワウソ、カワウソ。川のみぎわにいる」と現代語訳されている。中国にもカワウソはいるんだな、と思いを馳せる機会はそう無いはず。まして、吉田戦車伝染るんです』好きの筆者には、どうしてもかわうそ君のほうが先に頭をよぎる。詩の良し悪しの基準はよくわからないけれども、個人的にクスッと笑えるこの詩には好感を覚える。

 味を占めて『唐詩選(上・中・下)』も購入したが、こちらは未だ可愛げのある詩と巡り会えていない。『文選』1巻以降も含めて、これからの詩との出会いが楽しみだ。

 日本に話を移すと、芥川龍之介の俳句は腹を抱えて笑えるものが多い。これまた岩波文庫から加藤郁乎編『芥川龍之介俳句集』が出版されている。以下、何度読んでも笑える作品をいくつか挙げる。

  水さつと抜手ついついつーいつい

  魚の眼を箸でつつくや冴返る

  秋風やもみあげ長き宇野浩二

萩原朔太郎は「小説家の俳句」のなかで芥川の俳句を酷評している。そりゃそうだろうな、と思う反面、芥川自身は「文芸的な、余りに文芸的な」のなかで森鴎外の俳句は「何か微妙なものを失つてゐる」と評する。彼曰く、鴎外の俳句には心に迫ってくるものがないらしい。よく言うわ、と思うのは筆者だけではないはず。個人的に森さん(なぜか呼び捨てできないのが不思議)のは、かちっとした短歌や俳句といった印象を抱いている。『唐詩選』にありそうな、技巧派と言えばいいのだろうか。専門家ではないから何とも説明しがたい。少なくとも、芥川とは正反対だという印象を抱く人が多いだろう。

 天武天皇が詠んだ歌で「よき人の よしとよく見て よしと言ひし 吉野よく見よ よき人よく見つ」がある。なんやねん、と思わずツッコミを入れたくなる歌だ。昨日まで、この歌を越える「なんやねん歌」はないだろうと思っていたが、出会ってしまった。「やがていそいそいその海 潮干に乾く暇もなき しめりがちなるアメリカを いつかはあとにミナカタは」という、南方熊楠の友人が彼に贈った歌だ。

 天武天皇の歌と同様に、歌の巧さとは何なのか考えさせられる。言葉遊びを取り入れた歌は個人的に大好物だが、この「やがていそいそいその海」のリズム感にはつい笑ってしまう。どうしてだろう。加えて、この友人は南方曰く「年は1個違いで美少年。頭も良くて剛胆なところもある」云々。そんな人物像も知ってしまうと、この歌の持つ愛らしさがより強く感じられる。

 また何か面白い詩や俳句を見つけたら、ここに記したい。